忍者ブログ
Azul図書室 今まで読んだ本の「自己の記録」であり、誰かの目に留まり手にとって読んで頂けたら、さらに嬉しいとても私的な「ブックコーナー」でもあります。時間つぶしにお立ち寄りください。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

ブログのお引越しをしました。新しいサイトはこちら


http://azul-library.blog.so-net.ne.jp/

本ブログをブックマークされている皆様は、お手数をおかけいたしますが、変更をお願いいたします。

Cutは1990年の創刊の、映画と映画にまつわるサブカルチャーを扱った雑誌。映画雑誌と言えばミーハー的な「スクリーン」とか「ロードショー」か、知りたいと思う視点が個人的にずれていた「キネマ旬報」ぐらいだったのが、80年台後半あたりから「Flex」や「Premiere」が登場し、私の部屋にはそれらの映画雑誌の山が積まれていくこととなった。そして、極めつけがこのCutだった。

FlexやPremiereが、当然なんだけど最新映画の記事中心になるのに対して、Cutは「人」中心だった。そしてそのインタビュー記事などを飾るポートレートの美しさが、他の雑誌の追随を許さなかった。1990年に登場した(本当の意味での)セレブたちは、黒沢明、マドンナ、ディヴィッド・ボウイ、キース・リチャーズ、ウッディ・アレン、エディ・マーフィ...Cutの表紙ポートレートだけで写真展が出来る...

1990年から2005年の変遷を眺めていると、私がCutを読むのをやめた時期が明確にわかる。1998年。この年以降の号を1冊も持っていないし、見覚えのある表紙もない。

1998年のキャッチを読むと、

「タイタニック」にはじまり、「タイタニック」に終わる。豪華客船が映画史にその名を刻んだ。

とある。確かに、あの映画が大ヒットした頃から、私は映画を徐々に観なくなったよう思う。別にあの映画がきっかけではないかもしれないし、もしかして1998年の「タイタニック」という細い穴を抜けていくと、実はあの映画が元凶だったっという密やかな結論にたっするかもしれない。思い違いかもしれないが、よく行っていた大阪市内のミニシアターが閉館になり始めたのもこの頃以降だったような気がする。このあたりのことについては、じっくり考えて見たい気もする。

さて、この16年間に表紙や本誌を飾った人々の中には、一瞬の輝きを放った後消えていった人々もいるし、バージョンアップを続けている人もいるし、まったく変らない瞳孔の奥から光を放つ人もいる。よく見ると90年代前半から、何度も特集されインタビューされ続けている人がいる。

「ジョニー・デップ」

最近はすっかり海賊屋さん、かと思えば、カルトな映画にもちゃんと顔を出してくれてる。いつからか私は彼を、「ディップ先生」と呼んでいる。彼はすごいのだ。海賊屋さんやってる場合じゃない。スター(と呼ばれるもの)の仲間入りをする以前から、唯一無二のオーラを放ち、今なおそれを失っていない人も珍しい。そう、「ギルバート・グレイプ」はまぎれもなく彼のための映画だった。

さて、映画。映画館からはすっかり足が遠のき、ビデオを夜な夜な観ることもほとんどなくなった。でも、やはり私は映画を愛しているかなあ、と思う。1990年~98年のCutの表紙を眺めて、たとえ過去のものであっても、過去でものであるからこそ、ごそごそ引っ張りだして愛することができるもの、それが映画のような気がする。


益田ミリといえば、このブログでも書いたことのある「結婚しなくていいんですか」の著者だから、もしかして重くなるかも、って思ったんだけど、私もひとり旅を何度かしているので、共感できる部分と、んー、ちょっとめんどくさいなぁ、こ の人、って思う部分と、もっとモノを知っといた方がいいよ、とかがあったりで、やっぱり単に軽い本ではなかったです。でも、この人、1人以外の旅のとき は、それなりに協調できる人かもしれない、とふと思いました。旅に出る前よりずっといろんなことを今は知っていると思う。(ところが、この人はそれを「可 愛げがなくなった」としてしまう。この辺もちょっと理解できない私。) まあ、一人旅ができる人は、できない人より(できないというか、しようとしない人 より)よき連れとなるものです。

さて、47都道府県に生きているうちに行けるか?だーいぶ前にどの県に行っていないかどこかに書いた記憶があるのだけれど、あの時から行っていない県はひとつしか減らなかった。

「徳島県」

なので残りは...

山形県
群馬県
山口県
大分県
長崎県
宮崎県
熊本県

となった。

やっぱり九州は遠い。北海道は「函館」とか「札幌」とか行けば征服したことになるけど、九州はなぁ、ようけあるもんなぁ。

益田さんの本によると、山形県の女の人はとても感じがいいらしい。青森で聞いた評とはだいぶ違う。やっぱり実際に旅をしてみるべきなのかも。


その昔、マザーグース・ブームっていうのがあった気がする。スキー場の人気おみやげもの店の名前だったかしら。。。

何らかの理由で(今はもう覚えていない)、Mother Gooseを毛嫌いし、英文学を専門としていても見向きもしなかった。なんか、マザー・グーズがぁ、とかいってる女の子女の子するのがイヤだったのかも。

失礼しました。

そんなものではありません、Mother Goose。私が若い頃より慣れ親しんできた音楽・文学・映画、Mother Gooseのフレーズがここらそこらにちりばめられている。

児童英語の勉強をして、私はあまりにも知らんなぁ、と思って読んでみました。でもこれは氷山の一角(使い方は間違っていると思う。)。スカボロフェアの Parsley, sage, rosemary and thyme を口ずさんでいたら、先生にそれもマザーグースよ、って教えていただいた。世界一美しいフレーズ&メロディのひとつだと思っていたから、ちょっとびっくり。

人間、思い込みや偏見にまとわりつかれると、大事なものを落としてしまう。

「読みかけで積んどかれてる本を、ちゃんと読み終わる」という課題を自分に与えてみた。

ピギー・スニードを救う話」はどうしてほったらかしになってたんだろ。短編集だから、いつでも読めると思ってほっておかれたのかなぁ。いやあ、アーヴィン グは短編も面白い。

淡々と風景や心象が流れて、何事も起きずに「思わせぶり風船」がフワフワ舞うような短編も多いけれど、ちゃんと短い中に色々な事件を混 ぜ込むこの筆力はさすが。

だってこの人、長編の中で登場人物が書いた「短編」を入れ込んじゃう人だもの。「ペンション・グリルパルツァー」は、「ガープの 世界」の中でガープが書いた処女作。その後の「ホテル・ニューハンプシャー」のエッセンスも楽しめる一品。この短編のフルコースは美味しかった。

多分、大学の頃に買った本。カバーもなくかなり日に焼けているが、学生の頃は結局読まなかった。人間にはやはり年齢や教養による許容範囲って言うのがあって、この物語は18歳そこらの実経験のほとんどない私には、何がどう面白かったのかわからなかったのだろう。「アメリカン・スクール」というタイトルに、もっと華やかな内容を期待していたからかもしれない。

じゃあ、今なんでこの小説が面白いのかは、そうか、別に教養がついたから、っていうわけではない。いろんな本を読んだり、いろんな映画をみたり、いろんな仕事をしたり、いろんな人にあったり、をやってきたからだろうな、と思う。

だからといって今の18歳の人がこれを面白いと思えない、とも思わない。本との関係はあくまで個人的なものであるから。私は、これくらい時間がかかった、ということ。いや、もう少し前に本棚から発掘されていたら読んでいたかも。きっかけは、村上春樹「若い読者のための短編小説案内」だった。私はこのときもう若くはなかったけど、若いときに手からこぼれていったものをもう一度すくい取ることができた。この本のおかげで、もう小島信夫氏の作品に親しんでいる若い人は多いのかもしれない。もし、今面白くなかったら、十何年後かにもう一度読んでみてください。

<

一枚のレコード(ビーチ・ボーイズ)について、一冊の本を書くって言うのが面白いなあと、で、出だしが著者の幼年時代の私的な回想と絡まっていたりしたので読んでみるかなあ、と。
このCD、実は持っているのですが、私は彼らのファンでもヘビーリスナーでもないため、ほんまファンの人には申し訳ないけれども、何の印象もなく、ああストリングスとか入ってるなあ、サーフィン・ルンルンルンじゃないなあ、くらいしかわからなかった。この本を読んでもわからない。多分、読みながら聴くと面白いかも知れない。そういう意味で、そうか、この本は面白い。確かにあのコード進行やハーモニーは唯一無二だろう。
ビーチ・ボーイズが兄弟従兄弟中心にできていて、当初マネージャをしていた父親がけっこうひどいやつで、で、「Cocomo」はビーチボーイズじゃない、っていうこととかもわかります。

そうそう、何か翻訳が硬くて読みにくいなあ、って思っていたら村上春樹氏。うーん。。。



追記: このCDが発掘されたので聴いております。山下達郎さんのライナーノーツが付いていました。

7月1日、徳島で行われる「モラエス忌」に参加したことのある、徳島県外の人間としては非常に珍しい私なのだが、彼の著書をまったく読んだことがなく、これは恥ずかしいことであるなあ、と手に取ったこの一冊。小泉八雲と並んで語られる、もしくは八雲は言及されるがモラエスはされない、みたいなところもある、もちろん、日本人の認知度もかなり違うだろう、この人。個人的なことを言うと、八雲は学生のころ「『知られざる日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan)を原文で読んだし、松江の記念館にも行ったことがある。で、どうか、なんだけれど。。。無知で無教養の大学生だった私に「知られざる日本の面影」は荷が重すぎたのか、生真面目すぎたのか。塀とか庭とかのちまちま細かい説明より(八雲)、白いご飯の炊き上がる様とか病人(コハル)のかじったバナナを捨てるとか臭覚のない尼さんの話とか徳島が田舎くさい都市だとか(モラエス)の話の方が面白い。正直だし。
モラエスのこの本の中には、今も日本人が失わずに、いや失えずに抱え込んでいるもの、それはもしかしたら捨ててしまってもかまわないんじゃないの、っていうものが見え隠れする。それが、失ったものよりすごく気になった。モラエスを語るとき、ウェットになる傾向があるけど、私は逆のような気もした。ある程度の渇きがないと、こんな随筆はかけないような。そう、随筆、と書きましたが、一種小説のような醍醐味もあります。

いや、これは面白いです。ハワイについての本はいろいろ読みましたが、「フラ」という文化からハワイを見ているようで、それだけではないし、とにかく読みやすい。「踊る東大助教授が教えてくれた」という副題がついてますが、こんなサブタイトルなくてもいいやん。堅苦しく思われてしまう。

「フラ・アウアナ」(ウクレレなどの欧米楽器を使った新しいフラ」と、「フラ・カヒコ」(欧米楽器を一切使わず、チャントにあわせて身体で詩を表現する伝統的なフラ」をがある(実はそれだけではないのですが、それについてはこの本を読んでもらわないと。。。)。
何年か前に、マウイ島で「ルアウ」という伝統的な晩餐を、ホテルのショーで体験したことがあって、そのときにこの両方のフラを体験した。もちろん「フラ・カヒコ」を観たのは初めてで、その荘厳さに圧倒された記憶がある。
「フラ・カヒコ」が復興してきていることについての、著者の印象的な一文を紹介したい。

...いくら「古典のフラ」といったところで、それは過去と同じように再現できるわけではない。
むしろ、それは、今日の文化のなかであらためて解釈され、学ばれていくものなのである。
伝統の保持とはただ単に昔のものを保存することではない。むしろ、過去の価値観を
受け継ぎながら、それぞれの時代環境の中であらたなものを生み出していく作業である。
そのような作業を通じて受け継がれていく伝統は、いつまでも人々に大切にされ、残されていく。
 
このことは、フラだけではなく、いろいろな文化(音楽・文学など)にも言える事だと思う。

さて、ルアウを体験したことのある人はこの本を読んでみてほしい。この本を読んだ人は、フラ・カヒコを何とか体験してみてほしい。そんな思いにも駆られます。

ちなみに、ルアウのお薦めはマウイ島の「オールド・ラハイナ・ルアウ」です。私は残念ながら定員一杯で別のホテルのルアウショーに行きました。「オールド・ラハイナ・ルアウ」は他のホテルのショーのようにステージ上でやるのではなく、浜辺で、同じ目の高さで観ることができます。本当のやり方に近いらしい。

ディック・フランシスさんの「競馬シリーズ」を夢中で読んだのは80年代中盤から90年代前半にかけて。最近はあまり読むこともなくなっていたのですが、図書館で見つけて久々に楽しむ。
アメリカの文学に比べると、遠回しなというか、ひねられた文体が続く。リズムに乗るまでは読みづらかったが、登場人物が次々現れてテンポが上がってくると、本から目を離せなくなる。今回の主人公は、騎手を友人に持つガラス職人、という設定なので、競馬場や厩舎の場面はほとんどない。やっぱり、レースのシーンや、調教のシーンが多い作品の方が個人的には好きです。

2006年に、ずっと翻訳をされていた菊池光さんが亡くなっていたのですね。同じ時期にハマって読んでいた「87分署シリーズ」のエド・マクベインさんももうこの世にはいない。フランシスさん、お体に気をつけて、執筆活動を続けていただきたいものです。私も頑張ってついてゆきます。

この絵本の日本語版を、その昔、結婚する友人にプレゼントしたことがありました。
英語版をゆっくり読んでみたい、と購入。と、気になる点が一箇所あった。
仲良しの白ウサギ(雌)と黒ウサギ(雄)が、いつものように遊んでいるのですが、時おり黒ウサギが沈んだ顔をする?「どうしたの?」と白ウサギが何度も訊くと、ようやく彼は答えるのです。

「自分の『望み』について考えていたんだ」
「望みって何?」
「ずっと君と一緒にいられたらなぁって」(I just wish that I could be with you forever and always.)
「・・・、そのことをもっと一生懸命願ってみて」

さて、そこで黒ウサギはもっと一生懸命考えて、こう答えます

「I wish you were all mine.」

「君のすべてがボクのものにならないかなぁ」 まあ普通に訳すとこうです。ところが日本語版のほうは、ひとつ前のセリフとあまり変わらず、「ずっと君と一緒にいられたらなあ」みたいになってます。

ボクのもの、っていうと、一部の過激なフェミニストたちの攻撃に合うからなのでしょうか。

まあそんなことを考えながら読むのもよし、ただただキュートなウサギたちの絵にこころ和ませるのもよし。
日本語版のタイトルは「しろいうさぎとくろいうさぎ」です。

なかなか旅に行く心や身体や、その他もろもろの余裕がない。だから、この一冊と「インナー・トリップ」した。
写真の全てが、身体を張らないと、相当の根性がないと撮れないのがひしひしと分かる。でも、そんな汗と涙の味の全くしない宝石のような写真。こんな写真を撮ってみたいか?いやあ、見るだけで十分です。ほとんどの写真にそれぞれハワイ語のタイトルがついています。(「Jake Shimabukuro」はハワイ語ではないけど。)

国書刊行会の「新しい台湾の文学」シリーズは、いつも新刊を心待ちにしている。「台北ストーリー」「古都」「鹿港から来た男」「ヴィクトリア倶楽部」「客家の女たち」「自伝の小説」「荒人日記」「星雲組曲」、そしてこの「台北人」。2000年代の私の読書世界を彩った本たちである。これらの台湾文学シリーズを手に取るたび、台湾の、中国の、そして日本の新しい顔を、私は知っていく。「台北人」は、戦後大陸から故郷を追われて台北に生き延びた「外省人」たちの物語。「外省人」を、「悲情城市」的にのみ見ることはできない。このシリーズ、英米文学翻訳ブームのような華やかさはないけれど、ぜひぜひ今後も、台湾の素晴らしい作品を届け続けていただきたいものです。

プロフィール
HN:
junco
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
Residencial Azul の管理人です。
Amazonバナー

HTML & CSS Designed by ittuan

忍者ブログ │ [PR]